第2章 偏見(経験)(11)日本人とは何かさて、これまで述べてきたことを敷衍し、まとめる意味も兼ねて、「そもそも日本人とは何か」についてごく簡単ではあるが、述べてみたい。すなわち、「日本人とはどのような人々のことなのか」「日本人の定義」について述べるのである。我が國は世界に於いて独自の國體を有するものではあるが、そうであっても、他国との何らかの関わりは、我が國もまた国際社会の一員たる以上は避けられないことである。諸国の間に伍し、この独立を保持していくには、「日本人とは何か」についての憲法学からの考究が不可欠である。以下、日本人とは何か、について簡略かつ明快に論じていきたい。ご一読をお願い申し上げます。(1)國家の三要素我が國は、数千年の歴史を有する世界最古の國家である。万世一系の皇室を戴く天壌無窮の國體については、これまで何度も随所で触れてきたので、ここで詳述することは控えたい。そして、國民という概念もまた、我が國のそのような性質に鑑みれば、現在生存している國民のみならず、過去の國民(父祖)、そしてこれから生まれ出ずる将来の國民(子孫)をも含むのである。すなわち、國民とは、父祖から現在、そして子孫に至る、過去、現在、未来の國民である。かつて我々の父祖はこの日本という國に於いて、各々その働きをなし、日本國を形成し発展させる一翼を担ってきた。我々の父祖は、天皇を中心として皇族、公家、武士、平民らが各々その分を守りつつ、有名無名に一切関わりなく、意図するや否やに関わりなく、我が國の形成を担い、道徳や慣習、伝統などの生成に寄与してきたのである。かくして、國民とは現在の國民のみならず、父祖と子孫を含むものであり、國家とは①國土、②過去、現在、未来の國民、③父祖から相続してきた道徳や慣習、伝統などの三要素の総体を表すものと定義できるのである。(2)血統の相続(世襲)の法理さて、現在に生きる我々もまた、日本人の一員として、その役割の大小はあれ、この悠遠なる営みに参加している。我々は父祖よりこの日本國を相続し、この悠遠なる営みに参加し、これを子孫へと継承する。父祖から相続した道徳や慣習、伝統などは、我々が日本人たる所以である。我々はこれを相続し、子孫へと継承するのである。父祖から相続したものは、これにとどまらず、國土も含まれる。このように考えてくると、國家とは父祖から相続したものであって、現在の我々はこれを子孫へと継承する責務を負うものである、ということが理解できよう。従って、日本国を相続し得る者(日本人)とは、父祖が日本人たる者に限定される、といえる。何故ならば、日本國がかかる歴史的な連続性を有する國家である以上、それを相続し得る資格を有するのは、必然的にその子孫に限定されるからである。全くの別の民族が、いきなり日本人たる資格を相続することはできない。これを、血統の相続(世襲)の法理と呼ぼう。すなわち、日本人とは、父祖が日本人たる者のことであり、つまり、父祖より日本人たる血統を相続した者のことである、と定義できるのである。(3)結語今回は非常に簡略に過ぎるとのご意見もあろうと思いつつも、「日本人とは何か」を端的かつ直截に述べてみたが、これは保守思想憲法学の観点から必然的に導き出される結論である。日本人とは、父祖より日本人たる血統を相続(世襲)した者のことであり、それ以上でもそれ以下でもない。相続(世襲)こそは、保守思想の最重要の要素であり、我々の脆弱な理性の及ばないものである。1、國民とは、現在の我々のみならず、過去(父祖)と将来(子孫)の國民をも含むものである。2、國家とは、①1、の國民、②父祖より相続(世襲)した國土、③父祖より相続(世襲)した道徳や慣習、伝統など、の三要素から成る。3、日本人とは、日本人たる血統を父祖より相続(世襲)した者のことである。このテーマについては、今後も引き続き採り上げていく。2015.11.15 12:25
第6章 皇室典範と大日本帝國憲法(1)皇室典範講義(3)皇位は祖宗の皇統にして男系の男子これを継承すさて、いよいよ、皇室典範の内容の解説に入ります。第1条 皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス第1条のこの条文こそは、皇室典範の最も根幹の条文であり、皇室典範の柱であり、全てである、と言っても過言ではありません。この条文の意味するところを、伊藤博文(実質は井上毅)の『皇室典範義解』より引用してみましょう。(以下引用)皇統は男系に限り女系の所出に及ばざるは皇家の定法なり。上代独り女系を取らざるのみならず、神武天皇より崇峻天皇に至るまで三十二世、曾て女帝を立つるの例あらず。是れ以て上代既に不文の常典ありて易ふべからざるの家法を成したることを見るべし。其の後、推古天皇以来皇后皇女即位の例なきに非ざるも、当時の事情を推原するに、一時國に当り幼帝の歳長ずるを待ちて位を伝へたまはむとするの権宜に外ならず。之を要するに、祖宗の常憲に非ず。而して終に後世の模範となすべからざるなり。本條皇位の継承を以て男系の男子に限り、而して又第二十一條に於いて皇后皇女の摂政を掲ぐる者は、蓋し皆先王の遺意を紹述する者にして、苟も新例を創むるに非ざるなり。(引用ここまで)(伊藤博文『憲法義解』(岩波文庫)p.128~129)皇統の男系とは、父祖を辿っていけば神武天皇へ行きつくこと、を意味します。先祖の父方を辿れば神武天皇に行きつくことを、男系というのです。畏れ多くも皇位の正統性とは、男系であることであり、これ以外にはありません。男系男子の皇族方は皆等しく、皇位を継承(相続)される正統性を有しておられます。但し、その即位にあたっては第2条以下で順位が定められておりますので、それに従わねばなりません。井上毅によるこの条文の解説によれば、皇統は男系に限り、女系を排除するのは「皇家の定法(皇室の不文の法)」である。そして、神武天皇より崇峻天皇に至るまで、三十二世にわたり、女性天皇も即位された例はなかった。これは、古代に於いて既に、女系天皇のみならず、女性天皇も即位を禁じるという不文の法が成立していたと見られる。推古天皇以降、女性天皇が即位した例はあるが、これは当時の事情を考えると、幼い儲君の成長するのを待ってこれに皇位を継承させようとする為の便宜的なものに過ぎず、女性天皇の即位を皇位継承についての不文の法とみなすことができるとはいえないのである。この第1条が皇位継承につき男系男子の継承を定めるのは、皇祖皇宗より受け継いだ不文の法を成文化したものに過ぎず、新たな制度を創設した(新たに女性天皇を禁じた)のではない。と述べられています。つまり、女性天皇はいわゆる中天皇(なかつすめらみこと)であって、男系男子の儲君(皇位継承者)が直ちに践祚できない場合に於いて、中継ぎとして仮に即位されたものに過ぎない、というわけです。女性天皇は、八名十代の方々がいらっしゃいました。推古天皇、持統天皇、皇極天皇(重祚して斉明天皇)、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇(重祚して称徳天皇)、明正天皇、後桜町天皇、の方々であらせられます。次回の記事では、これらの天皇の践祚された例を検討し、「女性天皇とは男系男子の儲君が皇位継承をするまでの、中継ぎの役割として即位されたに過ぎなかった」ということを確認してみたいと思います。2015.08.11 08:53
第6章 皇室典範と大日本帝國憲法(1)皇室典範講義(2)皇室典範の概要さて、皇室典範の詳しい内容に入る前に、その概要についてあらかじめ知っておきましょう。というのは、初めから細かい内容を知ろうとすると、かえってよく分からなくなったりすることが多いからなのです。まずは、皇室典範とは何について書いてあるのか、をごく簡単に頭に入れて下さい。そして、このシリーズを読んでいてよく分からなくなった場合や、ある条文の意味がどうしても分からない場合は、もう一度この記事を読んでみて下さい。そうすれば、皇室典範についての必須の知識について、自分なりには何とか理解できます。初めは、それでいいのです。皇室典範は漢字片仮名書きで文語体であり、しかも難解な言葉も多く出てきますので、何らの予備知識なくいきなり読んでも、意味が分からないか、または誤解してしまいます。まずは、その概要を大雑把に知りましょう。何事でもそうですが、まずは全体像を大まかに知ることが、理解への近道です。皇室典範は、以下の箇所と内容からなっています。まずは、これを頭に入れて下さい。<皇室典範の概要>御告文と皇室典範上諭 ・・・ 皇室典範の基本的な精神、理念が書かれています。第1条 ・・・ 実に、劈頭の第1条こそが、この皇室典範の最も根幹の大切な条文なのです。「大日本國皇位は祖宗の皇統にして男系の男子これを継承す」これは、皇位継承についての不文の法を成文化したものです。つまり、皇位は悉く、男系男子を以って継承(相続)されてきたのであり、その例外は一例たりともない、というのが第1条なのです。ここで、あれっと思われる方もいらっしゃるでしょう。皇位は男系を以って継承されてきた、というのは、歴史的事実であり、女系の天皇など(そもそも女系天皇などは天皇ではないですが)一例もない、というのは分かるのだが、女性の天皇は歴史的事実として確かにいらっしゃったのだから、男子で継承してきた、というのは事実に反するのではないか、という疑問が出てくると思われるのです。これは、非常にもっともな疑問ですが、実はそうではないのです。これは、第1条の解説で詳しく述べたいと思います。第2条 ~ 第9条 ・・・ 皇位継承の順番とその変更の場合の規定第10条 ~ 第12条 ・・・ 践祚即位について。天皇が崩御された場合、皇室典範の第2条から第9条の規定により、直ちに儲君が践祚されます。第13条 ~ 第18条 ・・・ 皇族が成年となる年齢についての規定や、敬称についての規定などです。第19条 ~ 第29条 ・・・ 摂政を置く場合についての規定や、その順番などについての規定などです。第30条 ~ 第44条 ・・・ 皇族についての一般的な規定です。敬称についてや、婚姻の場合の規定などです。第45条 ~ 第48条 ・・・ 世傳御料や皇室経費についての規定です。第49条 ~ 第54条 ・・・ 皇族が訴訟に関わられる場合などについての規定です。第55条 ~ 第61条 ・・・ 皇族会議についての規定などです。皇族会議とは、皇嗣の変更、摂政の選任、皇室典範の改正などについて決定する機関です。皇族会議は、成年男子の皇族全員と、それに加えて枢密院議長など五名の大臣によって構成されます。第62条 ・・・ 皇室典範を改正する手続の規定です。皇室典範の改正には、帝國議会の議決は排除されています。皇族会議と枢密顧問の議によって、その改正が決定されます。以上が、皇室典範に於いて定められている事柄です。これだけでも頭に入れておけば、皇室典範について大まかに、内容を理解できたといえます。2015.08.10 23:57
第2章 偏見(経験)(10)「平等」は「自由」を破壊するさて、本日は「平等」についてお話ししたい。いわゆる通常にいわれるところの“憲法学”に於いては「平等」とは「基本的人権」の一つとして必ず守るべきものとして取り扱われている。しかし、保守思想に立脚する正統の憲法学に於いては、「平等」は絶対に憲法原理として認めてはならないものであり、憲法学から追放すべき悪の概念である。何故かといえば、端的にいえば、「自由」を破壊するのが「平等」だからである。これについては、非常に驚かれる方も多いだろう。本日は、なぜ「平等」が「自由」を破壊するものであるのか、をお話しする。本来、この章では、「偏見(経験)」と呼ばれる、「個人や集団の理性によるものではない、自生的に発生してきたところの、父祖から相続した道徳や慣習や伝統など」を採り上げている。この「偏見」の総体が「憲法」である。従って、「憲法」ではない、それを否定し破壊する「平等」についてはここで採り上げるべきではないのだが、前回以前に「自由」について採り上げた関係上、注意を喚起する意図であえてここで採り上げておく。なお、「平等」はこれから述べるように、保守思想に属するものではなく、いわゆる左翼思想に属するものである。よって、『憲法学概説』第四章 左翼思想とは何か でも採り上げる予定である。さて、「自由」とは何をやっても構わない、好き勝手にする、という放縦のことではない。「自由」とは、何らかの社会的制約を受けつつも、各人の有する思考や行動の許容範囲のことであるが、更に具体的にいえば、「自由」とは、「法(Law)」の下に於ける自由、すなわち、「我々の父祖から相続してきた道徳や慣習、伝統など」の下に於ける自由のことである。これが正統の自由である。これこそは、エドワード・コークやエドマンド・バークらが承継してきた英米保守思想に於ける自由であり、また、我々日本人にとっての伝統的な「自由」の概念もまた同じである。なお、「自由」についての詳細は、 第1章 偏見(経験)(6)「法(Law)」の下の自由 以下の記事を参照されたい。このような制約を前提とした上で、人は己の能力や才能をそれぞれに生かし、働くことで國は発展する。各自が勤勉に働くことで、己が富むのはもちろん、國も富むのである。自由とは、勤勉や節制などの道徳をも育む、道徳の源泉であり、自由な社会は気品ある道徳が醸成される社会である。さて、人がこのように活躍する前提となる才能や能力、性格や気質、父祖から受け継いだ財産などというものは、生まれつきバラバラである。家柄や血統などというものも影響するであろう。これらのものは、各自が生れながらにして父祖から相続したものである。こうしてみると、各自が活躍する上での前提となる才能や性格、財産などの諸々は、皆それぞれバラバラであって、不平等である。人は生れながらにして平等である、というのは真っ赤な嘘である。人は生れながらにして不平等である、が事実である。そして、そのようにして國が成り立ってきたものであるにもかかわらず、我々の勝手でどうしてそれを、破壊して良いものであろうか。不平等を「是正」して「平等」にしようとすることは、取りも直さず國を破壊することになる。そもそも、不平等を無理やりに「平等」にしようとするということは、各自の勤勉や節制などの結果として生じた「格差」を否定することである。従って、勤勉や節制などの道徳は育まれることがなくなる。社会には倦怠と惰弱が蔓延し、國は衰退する。「格差是正」とは、國を破壊する悪のスローガンでしかない。自由は必然的に、社会に於ける自由競争を前提とする。自由な競争は、各自の能力や人格を練磨し、その國民を全体として向上させる。また、身分制度は「自由」を保障し、それを守る機能を有している。身分制度は上位の身分に属する者(貴族など)により大きな自由を、下位の身分に属する者(平民など)により少ない自由を保障するものである。つまり、身分によって保障される自由の「量」的差異は生じるものの、身分制度は確実にそこに、身分それぞれに応じた「自由」を保障するものであって、それを完全に剥奪することはない。何故ならば、それを否定して自由を剥奪することは、身分制度そのものの否定、破壊となってしまうからである。従って、身分制度を否定する「平等」を推し進めることは、「自由」を破壊することになる。この点については、この章の「身分制度」でも述べる予定である。ただし、ここで一つだけ、付言しておきたい。「法律の下の平等」という言葉がある。これは、全ての人間が法律上は公平に取り扱われる、という意味である。実は、この「法律の下の平等」という概念は正しいものであり、「自由」の概念とは矛盾せず両立する。というのは、「平等」とは、それぞれ各自異なっているものを、無理やりに、強制的に同じにしてしまう、同じに取り扱う、ということである。これは、上に述べてきたように「自由」と矛盾する。しかし、全ての人間を法律上は公平に取り扱う(法律の下の平等)、というのは、その法律の内容が父祖から相続した道徳や慣習などに反しないもの、つまり、正しいものであれば、その法律を対象となる人々に対して公平に適用する、ということなのだから、まさに法律の機能そのものであるし、そうでなければならない。従って、「法律の下の平等」は、「自由」とは矛盾しない。そもそも、これは「違うものを無理やり同じにする」という「平等」とは違うものなのだから、「平等」という言葉を使うのは不適切であり、「法律の公平性」などと表現するべきであろう。以上に述べてきた、「自由」と「平等」の関係を端的に述べてみよう。自由とは何か。自由とは、不平等のことである。2015.08.10 12:20
第6章 皇室典範と大日本帝國憲法(1)皇室典範講義(1)皇室典範の基本理念本シリーズでは、皇室典範(明治皇室典範)について、その具体的な内容を中心に解説していきます。なお、「皇室典範」とあるのは、全て明治皇室典範を指します。現状、“皇室典範”と呼称されている法律については「占領典範」と呼ぶのが歴史的にも、法律学的にも正しいですので、以上お断りしておきます。初回の今回は、皇室典範の起草の過程と、皇室典範の基本的な理念をお話しします。皇室典範の発布は明治22年(1889年)、大日本帝國憲法の発布と同じ年でした。起草者は井上毅、伊藤博文、そして柳原前光(公家、大正天皇のご母堂であらせられる柳原愛子の兄)の三名。井上毅は皇室典範の解説書である『皇室典範義解』(著者は伊藤博文とされているが、事実上は井上毅の筆によるものとされている)の冒頭で、以下のように述べています。・・・爾して皇室典範の成るは実に祖宗の遺意を明徴にして子孫の為に永遠の銘典を残す所以なり。皇室典範は皇室自ら其の家法を条定するものなり。・・・蓋し皇室の家法は祖宗に承け、、子孫に伝ふ。既に君主の任意に創作するところに非ず。・・・(太字部分『憲法義解』伊藤博文(岩波文庫)p.127)井上毅は、ここで、皇室典範の基本的な理念について、とても大切なことを二つ、述べているのです。まず、「祖宗の遺意」について。祖宗とは、皇室のご先祖であらせられます神々と歴代天皇を意味します。祖宗の遺意とは、御告文にもある「皇祖皇宗の遺訓」と同義であり、父祖から相続した道徳や慣習などを指します。そして、皇室典範は皇室の家法ですから、皇室典範には特に、皇室ご自身に関する規範が定められている、ということになります。「皇室典範の成るは祖宗の遺意を明徴にして」とは、皇室典範とは皇室のご先祖から受け継いできた道徳や慣習などの決まりごとを文章化したものだ、という意味のことを、井上毅は冒頭ではっきりと述べているのです。これこそ、いわゆる「法の支配(Rule of Law)」です。そして、「既に君主の任意に創作するところに非ず」について。皇室典範がこのようなものである以上、これは、各時代の天皇陛下がそれぞれ、ご自身でお決めになった決まりごとではない、ということになるのです。甚だ不敬な物言いになるかもしれないことを恐懼しつつ敢えて表現させて頂くならば、各時代の天皇陛下が、ご自身の「理性」でもってお決めになったものではない、ということなのです。従って、歴代天皇陛下は(これまでは不文であった皇室の家法を成文化した)皇室典範を遵守されるのであって、万が一、改正される場合であっても(第62条)不文の皇室の家法に反しない範囲での改正でなければならない、ということになるのです。このように、皇室典範とは、皇室の家法であって皇室のご先祖から受け継いできた規範を成文化したものであり、従って大日本帝國憲法と同格もしくはそれ以上に位置するものであり、我々臣民がその改正に容喙するが如きことは不敬であり、あってはならないのです。2015.08.10 03:38
第4章 左翼思想とは何か(1)『社会契約論』の正しい読み方(2)このシリーズではルソー『社会契約論』は、桑原武夫・前川貞次郎訳(岩波文庫)より引用します。本来なら『社会契約論』の冒頭から採り上げていくべきですが、初回ということで、ルソーの思想が端的に分かりやすく現れている箇所から始めましょう。また、傍線部は特に有名な箇所ですので、どこかで見たことがある、と思われる方も多いかもしれません。(以下引用)人民の代議士は、だから一般意思の代表者ではないし、代表者たりえない。彼らは、人民の使用人でしかない。彼らは、何ひとつとして決定的な取りきめをなしえない。人民がみずから承認したものでない法律は、すべて無効であり、断じて法律ではない。イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう。その自由な短い期間に、彼らが自由をどう使っているのかをみれば、自由を失うのも当然である。(p.133)(引用ここまで)まず、ルソーの言説の特徴として、何の根拠もないことをいきなり断定的に言い切る、ということが挙げられます。ちょっと考えてみればおかしなことを言っているのに気づくと思われますが、多くの人は「ルソーという偉大な思想家がこんなことを言っている」と思ってしまい、何の批判もせずにルソーの説を受け入れてしまうのです。ここが、非常に気をつけねばならないところです。それにしても、ルソーのこのような手法は、プロパガンダの常套手段ですから、普段から気をつけておきましょう。さて、「一般意思」という言葉が出てきました。これは、ルソーの思想を理解する上で欠かせない概念です。しかし、初回の今回は、一般意思についてはひとまず置いておき、ルソーのいう「自由」について考えてみます。まず、ルソーは唐突に、「イギリス人は自由だと思っているが、それは間違いだ」などと言い出します。実際のところ、18世紀後半という時代に於いて、大英帝國は議院内閣制が完全に確立し、トーリー(保守党)とホイッグ(自由党)による二大政党制による立憲君主制は磐石のものとしてその広大な植民地を保持していました。大英帝國臣民は(人民ではありません)、エドワード・コークやマシュー・ヘイルらによって継承されてきた「法の支配」の下、身分制度に於ける「自由」を享受していました。「自由」は「平等」とは矛盾します。決して両立しません。というのは、自由とは身分制度によって政府の力が分散するところに生じるからです。詳細は、第1・2・3章などで展開したいと思います。それに引き換え、フランス王国は、ブルボン朝による絶対王政が進み、貴族らの力が弱まっていました。同時に、「自由」もまた、減少し、圧殺されていったのです。当時の大英帝國とフランス王国を比較してみれば、どちらの国民が「自由」に暮らしているかは一目瞭然でした。「君臨すれど統治せず」のハノーヴァー朝を頂き、貴族らの力の強い立憲君主制の大英帝國と、強大なブルボン朝を頂き、貴族らの力が減退していく絶対王政のフランス王国では、大英帝國の臣民の方が「自由」に暮らしていたのです。にもかかわらず、ルソーは「英国人民は奴隷だ」などと絶叫します。ルソーの言葉として有名なこの箇所ですが、こんなものは事実に反する、単なる誹謗中傷でしかないのです。つまり、ルソーは、「英国には身分制度が強固に存在している、平等ではない、だから英国人民は奴隷だ」などと言いたいのでしょう。しかし、身分制度こそは自由の源泉です。不平等こそは自由の証しです。それに、そもそも、自由と平等は別の概念ではありませんか。つまり、ルソーは、「平等」のことを「自由」だ、と、巧みに言葉の意味を転倒させているのです。これは、ニュー・スピークス(転倒語法)と呼ばれる洗脳技法です。転倒語法とは、言葉の本来の意味を逆さまにしてしまい、かつ、それを真実であると信じ込ませてしまう左翼のプロパガンダです。実は、ルソーは、この転倒語法の達人なのです。追い追い、見ていきましょう。この箇所は、次回も採り上げます。2015.08.10 03:36
第4章 左翼思想とは何か(1)『社会契約論』の正しい読み方(1)まず大前提として頭に置いていただきたいことは、マルクス・レーニン主義(社会主義・共産主義)というものは、左翼思想の一部分でしかない、ということです。従って、左翼思想を破砕するには、マルクスやレーニンの思想を批判することは、それなりに大きな意義はあり、決して無駄だとは思いませんが、やはりしかし、本当に根本から左翼思想を粉砕しようと思うのならば、マルクス・レーニン主義の土台であり根本である、デカルトやルソー、更にはヘーゲルなどの思想を批判せねばなりません。現在、時事問題その他でみられる、我が國を蝕んでいる左翼思想は、マルクス・レーニン主義というよりも、むしろルソー・ロベスピエール主義ともいうべき、もっと根本的なものです。社会主義・共産主義ではないので、単なる「反共」では通用しない点があり、やっかいなのです。このシリーズでは、『社会契約論』から、ルソーの思想を端的に表現している箇所を引用し、その引用箇所について「正しい読み方」という解説を施していきます。このシリーズをご覧になれば、ルソー・ロベスピエール主義という左翼思想の根本的な思想が把握でき、同時にそれに対する解毒剤をも入手することができます。社会主義・共産主義とは名乗らなくとも、左翼思想であることを見破ることができ、更にはそれに対する的確な批判ができるようになります。このシリーズは、第1・2・3章と併せてご覧下さい。保守思想の基軸となる論を展開するのがこれらであり、そして、進んで左翼思想を批判排撃するのが『ルソー「社会契約論」を読む』です。保守には、基軸となる思想が必須ですから、それに対する知識を欠くわけにはいきません。それがあってこそ、左翼思想への批判がより良く理解できると思います。批判や反論のみで基軸がない論は、説得力を欠きます。皆様のご愛読を宜しくお願い申し上げます。2015.08.10 03:35
『憲法学概説』の章立て(予定)『憲法学概説』は、以下の章立てで書いていく予定です。第1章 憲法(國體・時効)第2章 偏見(経験)第3章 相続(世襲)第4章 左翼思想とは何か第5章 統治機構第6章 皇室典範と大日本帝國憲法第7章 占領憲法無効論ご愛読のほど、宜しくお願い申し上げます。2015.08.10 01:15
第2章 偏見(経験)(9)男女の違い(男らしさ・女らしさ)いつとは知れぬ久遠の過去、高天原の天つ神々は、伊奘諾神と伊奘冉神に「この漂える國を修理(つく)り固成(かためな)せ」と詔されて、天の沼矛を賜った。伊奘諾神と伊奘冉神は天の浮橋にお立ちになり、天の沼矛を下ろしてコロコロとおかきまぜになると、その滴から淤能碁呂島ができた。お二人の神々は淤能碁呂島にお降りになると、天の御柱をお立てになり、更に八尋殿をお建てになった。お二人は天の御柱をお回りになり、深く、熱く愛し合い、夫婦となられ、大八洲と八百万の神々と、全てをお産みになった。伊奘諾神と伊奘冉神は、ただ皇室のご先祖にあらせられるのみならず、この國土の父母であらせられ、八百万の神々の父母であらせられるのである。我々は、今も伊奘諾神と伊奘冉神の愛に育まれて、この世にある。実に、我々の父祖の物語こそは、男女の愛の物語であり、それはただ過去の物語ではなく、今も続く久遠の愛の物語である。それは今のみならず、未来へと続く。過去とは今であり、それは未来でもある。「豊葦原の千五百秋の瑞穂の國は、これ吾が子孫の君たるべき地なり。宜しく爾(いまし)皇孫、ゆきてしらせ。さきくませ。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当に天壤(あめつち)とともに窮(きわま)り無かるべし。」神々とその子孫である我々の間に於いて、凡そ男女の愛に勝るものはない。全ては伊奘諾神と伊奘冉神の愛から生まれ、そして今も、男女の愛は様々な事物を生み育む。そこには喜びも幸せもあれば、悲しみも不幸もある。それら全て含めて、神々の生みたもうたこの世である。さて、男女が愛し合い、男は女を守り、女は男を助ける。これは伊奘諾神と伊奘冉神の姿そのものであり、ゆえに男女の愛し合う様はそのまま神々の業である。男女はそれぞれ、その外見のみならず、その脳の構造さえも異なる。よって、その働き、能力もまた自ずと異なる。そして、男女はその異なりの故にこそ、忌み嫌い合うのではなく、相惹かれ愛し合う。凡そ、人は異なるものに対し、嫌悪を持つのが自然であるが、男女についてはこれは、全く当てはまらない。男女の違いこそは、お互いにお互いを神秘的で尊敬すべきものと思わせる。このような男女の外見上や脳の構造の違いは、男女によって形成されてきた社会(中間組織。追い追い後述する)や國の成り立ちに直接の影響を及ぼす。また、歴史的・伝統的に形成されてきた社会や國はまた、男女の違いに影響を及ぼす。かくして、國や社会のあり方と、男女の違いは互いに影響を与えつつ形成されていくのである。かかる男女の違い(男らしさ・女らしさ)とは、誰か特定の者や集団が、その理性で決定したものではない。男女の先天的な違いを前提に、歴史的・伝統的に自生的に形成されてきたものである。これこそまさに、フリードリヒ・フォン・ハイエクのいう自生的秩序(Spontaneous Order)であって、エドマンド・バークのいう偏見(経験)(Prejudice)そのものである。すなわち、男女の違い(男らしさ・女らしさ)こそは、我々の父祖から相続してきた道徳や慣習などそのものであって、不文の憲法(國體)の重要な要素を構成するものである。男女の愛は、如何に多くの崇高なものを育むだろうか。男女の愛は、相手を大切にし、尽くすことによって生じる智慧と、己を省みる心、そして己を相手の為に犠牲にし、相手を守る為ならば死をも厭わない勇気を育んでくれる。愛こそは、道徳の源泉であり、我々の命の源泉であり、我々が神々から相続したこの世の中で、最も崇高な様々なものの源泉である。夏、それは恋の季節だ。過去は今であり、今は未来である。「豊葦原の千五百秋の瑞穂の國は、これ吾が子孫の君たるべき地なり。宜しく爾(いまし)皇孫、ゆきてしらせ。さきくませ。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当に天壤(あめつち)とともに窮(きわま)り無かるべし。」2015.08.09 23:32
第2章 偏見(経験)(8)「偏見」が自由を保障する前述してきたように、憲法学上の「自由」とは、何らかの社会的制約を受けつつも、各人の有する思考や行動の許容範囲のことである。そして、それをもう少し具体的にいうならば、世界的にみれば、「自由」には概ね三つの形態があり、それは ①ルソー・ジャコバン主義の自由 ②ジョン・ステュアート・ミルの自由 ③英米保守思想の自由 であり、これらの中で正しい自由とは③の英米保守思想の自由であり、我が國に於ける歴史的・伝統的な自由の概念も、③に属するものである、ということであった。以上の詳細については、前回の『憲法学(保守思想)概説』の記事を参照されたい。さて、もう少し端的にいうならば、そもそも、③でなければ、「自由」などと称していても、実際には自由は全く保障されなくなる、ということなのである。①のルソーらの定義した自由は、それは全く口先だけの自由であって、実際には自由は全ての民から剥奪された。ルソー・ロベスピエール主義というカルト思想によって乗っ取られた革命フランスでは、ブルボン王家や貴族のみならず、フランス国民への大虐殺、法定手続なき処刑が日常茶飯事に行われたのである。また、②は、一見は非常に自由の保障に資するように見えても、肝心の自由を保障している仕組み、システムそのものを破壊してしまうものであるゆえ、場合によっては①に劣らず危険な考え方であるともいえる。ミルは、「英国のマルクス」と呼ばれる人物である。③は「父祖より相続した道徳や慣習、伝統など」という、自由の制限基準を示しており、また、それ自体が自由を保障する仕組み、システムをも守っているものでもある。これが、最も正しい「自由」である。端的にいえば、保守思想に基づく憲法学の最大にして究極の目的こそは、自由の保障である。真正の自由の保障こそが、保守思想憲法学の存在意義である。自由とは、父祖より相続した道徳や慣習、伝統などの範囲内に於いて許容され得る、各人の内心や行動の範囲のことである。すなわち、「法(Law)」の下の自由である。以前の記事で、「偏見(経験)」の代表的なものを例示列挙した。これらは例示であるから、他にも重要な「偏見」があり得るであろう。そのことを前提に踏まえつつ、保守思想の三大要素である「國體(憲法・時効)・「偏見(経験)」・「相続(世襲)」の関係を、以下に図示しておく。これについては、随所でまた採り上げて論じていく。【偏見(経験)】→→「偏見」の集合が「國體」→→【國體(憲法・時効)】・皇室 父祖 ・身分制度 ↓・國語 ↓・家族 ↓ ・男女の別 ↓ ・自由市場経済 「國體」を子孫へと【相続(世襲)】させる・国際関係(外交・國防) ↓ ↓ ↓ 子孫そして、偏見(経験)とは、我々が父祖より相続してきた自由を保護し、守る機能を有している。偏見が破壊されることは、國體の破壊であり、それは自由の破壊である。自由とは、何らかの社会的制約を受けつつも、各人の有する思考や行動の許容範囲のことである。そうであれば、自由が保障される為の最大の条件こそは、まず、政府が強大な力を持ち過ぎない、ということである。更に、皇室や家族、自由市場経済などをはじめとする「偏見」が強固に存在していること。「偏見」は各人の理性に限界がある以上、これを守らねばならないものである。「偏見」を尊重するところに、他者への干渉は軽減される。ここに、「父祖より相続した道徳や慣習、伝統など(法 Law)」の下の自由が生じるのである。故に、「偏見(経験)」とは「法」のことである、と言い換えても良いだろう。2015.08.09 22:47
第2章 偏見(経験)(7)「自由」とは何かさて、話は最初に戻り、三つの相反し、排斥し合う憲法学上の「自由」である。まず一つは、フランス革命の理論的支柱となったフランス啓蒙思想、いわゆる理性万能思想(左翼思想)を代表するジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)のいう「自由」である。つまり、「自由、平等、博愛」の自由である。ルソーは、フランス王国臣民がその父祖より相続した道徳や慣習、伝統などの「法」を否定し、そのようなものと断絶した、基本的人権と民主主義に基づく「自由」を提唱した。この「自由」は、立法者(独裁者)の意思を絶対とする人民主権思想に立脚する「自由」である。従って、この「自由」は、立法者の意思の絶対的制限下にある自由であり、その保障は限りなくゼロに等しいのである。フランス革命に於いて、「人権宣言」などが出されるも、そのような文言は事実上全く無視され、法定手続なき処刑、自由の剥奪、大虐殺が日常茶飯事に行われた。フランス革命やロシア革命、それに続くいわゆる人民民主主義諸国の誕生とそれら諸国に於いて起こった諸々の人類的大悲劇は、ルソーの「人民主権」とそれに基づく自由とは、暗黒の圧政をもたらすもの以外の何でもないことを明確に証明したのだ。そして、事は、他の主権論思想についても同じである。天皇主権や国民主権の思想は、人民主権と相対立するかに見えて、実は全く同根の、暗黒の圧政をもたらす思想である。「主権論」という、父祖より相続した道徳や慣習、伝統などの「法」を否定し、ある特定の人や集団の意思を絶対視する思想は、一人一人の「自由」を必ず圧殺し、消滅させてしまう。これについての詳細は、第三章「國體(憲法・時効)」で述べる予定である。この点、大日本帝國憲法は、第4条に於いて、「天皇ハ・・・此ノ憲法ノ条規ニ依リ」統治権を行使することが定められており、天皇といえども大日本帝國憲法とその背後にある「法」(皇祖皇宗の遺訓)を遵守せねばならないことが明文化されている。よって、大日本帝國憲法は、いわゆる天皇主権論を明文で明白に否定し、拒絶しているのである。さて、二つ目の「自由」とは、19世紀英国のジョン・ステュアート・ミル(John Stuart MiIl)のいう「自由」である。ミルは、自由を、「他人に害悪を及ぼさない限りに於いては何事もなし得ること」と定義した。我が國に於ける、いわゆる憲法学のテキストに於いては、この意味の「自由」が最もポピュラーと思われる。なるほど、自由をこのように定義するならば、ルソーのいう自由(またはホッブズの君主主権に於ける自由、ロックの国民主権に於ける自由)の如く、主権を持つものの絶対的な意思により、各自の自由が一方的に圧殺されてしまう恐れは少ない、といえる。自由自体の許容範囲を、主権を持つものの意思に全て委ねてしまう、ホッブズの君主主権、ロックの国民主権、ルソーの人民主権に比べて、ミルによる「自由」の定義は、「他人に害悪を与えないこと」という、一応客観的かつ明確な判断基準により、各自の自由の範囲を、他者の絶対的判断から守る機能を有しているからである。この観点からすれば、ミルの自由の定義は、ホッブズやルソーらの主権論による「自由」よりは格段に、各自の自由の保障に資するものである、と評価できるように思われる。しかし、これは大きな誤解である。「他人に害悪を与えない」という基準には、父祖より相続した道徳や慣習、伝統などを保守する、という観点が全く欠落している。つまり、この基準によれば、他人に害悪さえ与えなければ、如何なる不道徳や伝統破壊なども行って構わない、ということになってしまう。そして、「他人に害悪を与えていない」という抗弁は、ともすれば、実際には他人に何らかの害悪を与えている事実を誤魔化し、見逃させる口実として使われている場合もある。かくして、ミルの定義による「自由」によれば、父祖より相続した道徳や慣習、伝統などの規範は、非常に巧みに破壊されてしまう。実に、ミルの「自由」こそは、緩やかで狡猾に行われる革命の手法なのだ。大いに警戒せねばならない。第三の意味の「自由」こそは、ミルではない、英米に於ける本流の政治思想、すなわち英米保守思想の定義する「自由」である。「法(Law)」すなわち父祖より相続してきた道徳や慣習、伝統などの下に於ける「自由」である。これが、正しい「自由」である。英米保守思想とは、概ね、16世紀英国の下院議員にして法曹家であるエドワード・コーク(Sir Edward Coke)に始まり、18世紀英国の下院議員エドマンド・バーク(Edmund Burke)によって大成されたものである。父祖より相続した道徳や慣習、伝統などを「法」として尊重し、命令も法律なども、全て、「法」に従わねばならない、とする「法の支配(Rule of Law)」なども含む。前回の記事でも解説したように、我が國に於ける歴史的・伝統的な「自由」の概念も、この系譜に属する。大日本帝國憲法の保障する「自由」も、「皇祖皇宗の遺訓(法 Law)」の下に於ける自由であるから、大日本帝國憲法の告文はこのことを確認したものであるといえる。英米保守思想については、これまでも随所で解説してきたが、この『憲法学(保守思想)概説』に於いても、第三章 憲法(國體・時効)で詳説する予定である。2015.08.07 03:49
第2章 偏見(経験)(6)「法(Law)」の下の自由さて、ここで我々は、三つの相反し排斥し合う憲法学上の「自由」について知る必要がある。その前に、我が國に於いて、歴史的・伝統的な憲法学上の「自由」とは如何なる概念であったのか、を押さえておきたい。つまり、一般的な憲法学上の「自由」とは、何らかの社会的制約を受けつつも、各人の有する思考や行動の許容範囲のことであるが、これには従来、三つの相反する形態があり、我が國に於ける「自由」とはそのうちの何れに属するのか、という問題である。但し、ここで留意すべきことがある。我が國には、古来より「自由」という言葉は存在したが、それは、概ね「ほしいまま」「勝手気まま」という意味合いで用いられていた、ということである。しかし、この記事で扱うのは、このような我が國に於ける「自由」という言葉の歴史的な意味合いのことではない。これは、何らかの社会的制約を受けつつも、各人の有する思考や行動の許容範囲のことについての話ではないのであるから、憲法学上の「自由」についての話ではないのである。あくまでも、この記事で扱うのは、憲法学上の「自由」の概念が、我が國に於いては歴史的・伝統的に如何なる意味合いを持っていたのか、である。「自由」という言葉の用い方の歴史的な用法を論じるのではないので、この点を混同しないようにして頂きたいのである。この点を混同すると、何を論じているのか良く分からなくなってしまうので、注意されたい。さて、我が國に於いては、皇位継承に関わる不文の法が元明天皇の即位の宣明に「不改常典(かはるまじきつねののり)」として表現されているのをはじめ、國政は父祖より相続した不文の法を最上の規範として行われるのを常としてきた。一時は、表面的には律令制などの大陸的成文法主義に走るにみえるも、我が國の歴史的・伝統的な慣習に合致しない律令は死文化していった。かくして、我が國に於いては、幕府制による時代に於いても慣習法を最も重んじる政治が行われ、御成敗式目その他の成文法も、父祖から相続してきた不文の慣習法を成文化したものとして起草されたのである。かくして、我が國は、父祖より相続してきた道徳や慣習、伝統などの規範に則り、その政治は行われてきたのである。すなわち、我が國に於ける歴史的・伝統的な憲法学上の「自由」とは、父祖より相続した道徳や慣習、伝統などの不文の法の下に於ける自由である。この傾向は、明治維新に於いて、専らドイツ大陸法系の成文法思想の流入によって弱まるが、しかし大日本帝國憲法と皇室典範については、事情は異なっていた。大日本帝國憲法と皇室典範を起草すべく英才らの中、伊藤博文は欧州留学中にプロイセン王国憲法を学び、底流する英米法思想をも学んで帰朝した。なお、プロイセン王国憲法は、後に成立するドイツ帝国憲法とは全く法思想を異にするものである。ドイツ帝国憲法は、フランスなどと同様の大陸法系成文法主義に立脚するものであるが、プロイセン王国憲法は、英米法系不文法(コモン・ロー Common Law)主義に立脚するものであったことを銘記しておくべきである。また、金子堅太郎は早くよりアメリカに留学しており、ハーヴァード・ロー・スクールにて英米法思想を学んだ俊才であった。金子堅太郎は、アメリカ合衆国憲法を起草したアレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton)らの著書『フェデラリスト』などを研究し、帰朝後は英米保守思想のバイブルといわれる英国のエドマンド・バーク(Edmund Burke)の『フランス革命の省察』などの抄訳を刊行するなど、英米保守思想憲法学の第一人者であった。エドマンド・バークやエドワード・コーク(Sir Edward Coke)などに通底する英米保守思想とは、父祖から相続した道徳や慣習、伝統などの「法(Law)」に、国王の命令や国会の制定法などの成文法は従わねばならない、と考える。これが、「法の支配(Rule of Law)」である。そして、このような思想は、前述してきたように、我が國に於ける古来からの國政のあり方と、奇妙に偶然に一致するのであった。皇室典範と大日本帝國憲法双方の起草の中心人物であった井上毅は、この一致を知悉していた。そして、英米法にいう「法(Law)」を、「皇祖皇宗の遺訓」と捉え、皇室典範も大日本帝國憲法も、この不文の「皇祖皇宗の遺訓」に従わねばならず、これを成文化したものでなければならない、と考えたのである。かくして、伊東巳代治を加えたこの四名は、以上のごとき考えの下、大日本帝國憲法と皇室典範を起草したのである。大日本帝國憲法と皇室典範は、法体系に於いては、慣習法を成文化した英米法系の法典なのである。2015.08.07 03:12