第2章 偏見(経験)(1)偏見とは何か

我が國は天皇を中心に、数千年の一貫した歴史と伝統を有する世界最古の國家である。
畏れ多くも天皇は皇祖天照大御神の皇子孫として、天壌無窮の神勅・神鏡奉斎の神勅・斎庭の稲穂の神勅等に基づき、我が國を統治されてきた。実に、我が國の神國たる所以であり、かくして、万世一系の天皇が我が國を統治されるという、我が國の國體は今尚不変である。
天皇が我が國を統治されつつ、しかし、その下にあって実際に政務を採る機関は様々に変遷を遂げた。大臣大連の制・摂関制・幕府制・近代議院内閣制へと変遷を遂げてきてはいるが、これらは全て、天皇による統治を前提としてのことである。これらの正当性は、天皇による統治により保障されているに過ぎないのである。
我が國の形成は、更に積み重ねられる歴史と伝統により為されていく。そこには、有名無名の無数の人々の、気の遠くなるような悠遠の営みがある。そして、この営みは今に続いている。

さて、凡そ、我々が持つ思弁や理性というものは、甚だ貧弱である。我々は日々過ちを犯しつつ生きている。英雄英才ともなれば、そのようなこともより少なくはなるであろうが、しかし、程度の問題といえるだろう。凡そ、人は過つものであり、この世に過ちのない者など決していない。

事が日常生活に於ける、それもごく瑣末な事柄であるならば、さして気にするべきでもないだろう。しかし、政治に於ける、それも國のあり方や行く末を左右するような重大な決定に於いては、我々は果たして、己の脆弱な理性を信用できるだろうか。これは、明確に否である。
政治に於いて決定される事項は、多くは國のあり方や行く末までを決定してしまうような重大事ではないであろうから、そのような事柄については、それに携わる者らの理性による決定が為されても、問題はないであろう。
しかし、以上のように、我が國は、数千年の歴史と伝統とともに、天皇を中心としつつ、有名無名の無数の人々の悠遠の営みによって形成されてきた國家である。この、有名無名の無数の人々の悠遠の営みこそが、我が國の秩序を形成し、國家を支え保たせている。
そうであれば、我々は、政治に於いて、國のあり方や行方を決定するような重大事に於いては、これまでに形成されてきた、有名無名の無数の人々の悠遠の営みを無視してはならず、これに従わねばならないといえる。これに従わねば、我が國は最悪な場合は崩壊し滅亡するのである。
我が國の秩序を形成している、有名無名の無数の人々の悠遠の営みは、すなわち、我々がその父祖から相続してきた、道徳や慣習、伝統などの総体であるといえる。これこそが、我々が日本人であること、を形作っているのであり、これこそが我が國の独自性、すなわち國體である。
すなわち、我が國の國體とは、天皇を中心とする、我々の父祖から相続した道徳や慣習、伝統などの総体である、と定義できるのである。

ここに、凡そ政治とは、天皇を中心とする、我々の父祖から相続した道徳や慣習、伝統などの総体、すなわち國體に反しては行い得ない、といえる。
國體に関することについては、我々の脆弱な理性は及ばず、これを尊重して決して変更(破壊)してはならない、ということなのだ。
幾世代にもわたり、数百年、数千年の年月を経てきた道徳や慣習、伝統などは、それだけ多くの年月を経て試されてきた故に正しい、ということでもある。
我々は、「何が正しいのか」を絶対的に把握することはできない。我々の理性は脆弱だからである。しかし、数百年、数千年と続いてきた道徳や慣習、伝統などは、それ故にその正しさが証明されているといえる。
我々は経験上、己が万能の存在ではない、正しいこともすれば過ちも犯す存在だと知り抜いているのだ。従って、我々は、父祖から相続した経験である、道徳や慣習、伝統などを尊重するのである。
この「経験」には、理性からすれば「不合理ではないか」と感ぜられるものも含まれていることもあるだろう。従って、「経験」を「偏見」と言い換えることもできるだろう。事実、エドマンド・バークは「偏見 (prejudice) 」と呼んでいる。しかし、「偏見」であることは、悪いことを意味しない。それどころか、以上に述べてきたように、長年にわたって経験されてきた偏見は、我々の脆弱な理性よりも正しいことが証明されているのである。
実に、「偏見」こそは、保守思想の核である。