第2章 偏見(経験)(2)偏見の例

今回は、偏見(prejudice)にはどのようなものがあるのか、を例示し、その重要性などの理解に努めたい。
再言すると、偏見とは、民族がその経験によって形成してきた叡智のことである。この偏見こそが、憲法(國體)の各部分を構成する。
なお、偏見についての詳しくは、前回の記事を参照されたい。
一般的には、偏見という言葉は、どちらかというとあまり良くない印象を受けるものである。しかし、ここでは、理性に照らせば不合理と感ぜられるもの(偏見)であっても、幾世代にもわたって経験されてきたことは、我々の脆弱な理性に勝るのだ、という観点の下に、敢えて偏見という言葉を用いていきたい。
さて、偏見の主なものを以下に示す。無論、これ以外にもあるが、このシリーズでは主にこれらについて取り上げていきたい。


・皇室

もはや申し上げるまでもないだろう。



・身分制度


我が國には貴族と武士、平民という伝統的な身分制度が存在した。身分制度は、その身分に応じた振る舞いを義務として求める。すなわち、身分制度こそは道徳の源泉であり、国體を護る砦である。



・自由市場経済(私有財産制)


私有財産制に基づく自由市場経済は、古来より我が國に於いて自生的に生成してきた秩序(Spontaneous Order)である。私有財産制と自由市場経済は、一人一人の向上心を育み、創意工夫と努力によって己を富ませるのみならず、人間的にも豊かにしてくれる。 
また、一人一人の創意工夫と努力は、國全体の発展という公益に資する。これこそ、教育勅語にいわれる「進んで公益を広め、世務を開き」に適うものである。



・男女の別


 「男らしさ」「女らしさ」は、身分制度に多大に類似する。それは、それに応じた振る舞いを義務として求めるものだからである。よって、男女の別もまた、道徳の源泉であり、国體を護る砦である。
身分制度との違いは、男女の関係には上下関係はない、という点である。男性は女性を守り、女性は男性を助け、相互の関係は愛情と信頼によって成り立つ。これが、教育勅語にいわれる「夫婦相和し」の心である。



・家族


家族は、凡そ人が初めて他の人に接する場であり、人が人と成る場である。教育勅語にいわれる「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し」を実践し、学ぶ場である家族は道徳の学校であり、人がその人格を形成する上で最も大きな影響を受ける場であるといえる。
 他の偏見についてと同様、家族に於いても、相続(世襲)の概念が妥当する。父祖から相続するのは財産権のみに止まらない。家訓や道徳、慣習、そして家業などをも相続(世襲)する。

これらを相続させてくれた父祖への感謝の心(祭祀)もまた、ここに生ずるものである。これらをまた、子孫へと相続させるのが我々の義務である。
父祖を思いみるとき、我々の心は自然と厳粛になり、道義を顧みて忘れないようになる。家族はこのようにして、道徳の源泉たるものである。



・外交(国際関係)


これまで列挙したのは國内に於ける偏見であるが、國を安定させるには、対外的関係も常に配慮せねばならない。すなわち、外交と國防もまた、國を守る為の枢要事であることはいうまでもない。
我が國は数千年の過去に遡り、既に大陸や半島の諸国と対立し、時に戦火を交えてきた。そして、ついには遣唐使は廃止され、我が國は以後、千年の長きにわたって大陸や半島との交わりを断ったのである。その間にも元寇や明との戦があった。
明治時代を迎え、漸く清や李氏朝鮮との交わりが開かれるも、その後の今に至るまでの経緯はもはや詳しく語るまでもあるまい。我が國と大陸・半島が交わるところ、そこには只管、衝突と戦争しかなかったのだ。
我々の理性は脆弱であり、幾世代にもわたって、我々の父祖によって経験されてきたことこそが正しいといえるのであれば、ここに出ずる結論は一つである。我々は、我々と大陸・半島にとって互いに無用な紛争と戦争を避けたいと望むのであればこそ、父祖よりの遺訓に従い、その交わりを断たねばならない。
「皇祖皇宗の遺訓」とは法の支配の謂である。「大陸や半島との交わりを断て」とは、我々の「法」であり、「大陸や半島との交わりを断て」は皇祖皇宗の遺訓であり、國體(憲法)である。