第2章 偏見(経験)(3)自由市場経済

さて、このように、偏見(経験)とは、数百年、数千年の長きにわたって自生的に形成されてきた秩序(Spontaneous Order)である。
 我々の理性は脆弱であって、「何が正しいことなのか」を判断する能力を有していない。
 そうであれば、少なくとも、國のあり方や行く末を左右するような重大な事柄については、我々は、個人の理性のみならず、国民投票の如き形式によって、民主主義的手段によって決定された事柄についても、それが多数派の理性の集合でしかないことから、これを信用してはならない、ということになる。
 従って、國のあり方や行く末を左右するような重大な事柄とは、つまり國體に関する事柄のことであるから、國體に関する事柄について決定を下すには、個人や多数派に関わりなく、その理性を一切排撃し、数百年、数千年の長きにわたって自生的に形成されてきた秩序たる偏見(経験)に従わねばならない、ということになる。
 すなわち、偏見(経験)とは、國體についての不文の規範であり、不文の法(Law)である。
 そして、偏見(経験)の総体を、「憲法」と呼ぶのだ。
 つまり、憲法は、元々の形式は不文であり、國體についての不文の法である。
 我々は、このように形成されている不文の法たる偏見(経験)に対してはそのまま尊重して敬意を払うべきであり、己の好き嫌いで接してはならない。
 偏見(経験)は、数百年、数千年の歳月を経て形成されてきたものであって、我々の脆弱な理性を超越するものである。そうであれば、我々の理性を以ってそれに異議を唱え、果てはこれを改変しようとするのは、憲法(國體)の破壊に他ならない。
 今回以降は、その憲法の各部分を構成する偏見(経験)について詳説していきたい。


 

<自由市場経済(私有財産制)>

 我が國に於いては、数千年の過去より、物と物との交換、後には貨幣と物との交換の場が発達した。これが、市場である。市場に於いて行われる売買が繰り返されるうち、そこには一定の慣習が形成されていく。売買は、この慣習に基づいて行われるようになる。
 かかる経済活動の発展は、すなわち貧富の差を生む。それは、個々人に能力や才能の違いがあれば当然そうなるように、裏を返せば「自由」な競争が行われてきた証である。
 ただ、自由競争とは、「何をやっても構わない」などということを決して意味しなかった。売買は慣習に基づいて行われ、また、身分制度の強固な昔に於いては、それらにも制約された。
 かかる制約が規範となり、その下に於いて行われる自由な競争は、各自の勤勉と努力、創意工夫、そして遵法精神をも育んでいく。決まりごとを守った上で競争することが、功利を得られるということが確約された社会に於いては、勤勉と節制、努力と創意工夫、それをやり遂げる勇気といった徳目が育まれるのだ。
 道徳というものは、為政者が考え出したものではない。実に、このように、自由競争に基づく市場経済に於いて、自生的に育まれてきたのである。また、従って、道徳なき(金のためなら何をやっても構わない)自由市場経済などというのは、それ自体が矛盾である。

 何時の時代も、我が國に於いては、市場を為政者が完全に統制するのは不可能であった。つまり、為政者によって統制されない富の存在は、彼らに対する対抗となり得る。かくして市場は、自由の源泉となる。
 このように見ていくと、その時々に於ける変遷はあろうとも、時代が変わろうとも、慣習に基づく自由市場経済とは、道徳と自由の源泉となってきたし、今もそうである。一定のルールの下に発生する「貧富の差」は、我が國が自由な社会であることの証拠であるし、それは正しいことである。
 従って、我々は自由市場経済を、その生成されてきたままに尊重し、敬意を払い、これを変改してはならない。その要素の全部は無論、その一部をも否定し、改変してはならないのである。それは、我々がそれに基づいて形成してきた道徳や自由の一部を破壊することになろう。つまり、國體の破壊である。
(続)