第2章 偏見(経験)(5)「自由市場経済」は自由権の源泉

ところで、憲法学とは、國家の最高法規たる憲法についての考究の学問であること、いうを俟たない。


國家の最高法規とは何か。それは、その國家が存立を保持していくための規範である。そして、國家の存立とは、単なる物理的、領域的な存立のみに止まるものではなく、その國家の社会的構造の本質的な同一性を保持していくことに他ならない。


國家の社会的構造の本質的な同一性の保持とは、すなわち、國家が父祖より受け継いできた独自の伝統や慣習の保持、保守を意味する。端的にいえば、國家のアイデンティティの保持である。


この『憲法学概説』は、日本国憲法を、あたかも宗教の経典のように無謬の、批判を許されざる信仰の対象として扱う既存の“憲法学”ではなく、國家の存立の保障の観点から抽出される真の憲法学を打ち立てようとするものである。


さて、國家を構成するのは、いうまでもなく國民である。従って、憲法学に於いてはその國民の自由(権利)が考究されるべきは当然である。


自由ないし権利(以降、自由とする)の発生及びその保障は如何にして行われるのであろうか。


自由とは、ある一定の社会的制約を受けつつ、人がその意思に基づいて思考し行為できる、その範囲のことである。


この意味での自由は、我が國に於いては、身分制度の下にありつつそれに応じて全ての國民に古来より保障されてきた。否、むしろ、身分制度こそは自由を保障する上で決して欠くことはできない、自由の源泉であったのである。このことは、後述する。


一定の商慣習の制約を受けつつ存在する自由市場経済が行われるところ、私有財産権は保障される。そして、財産権はその家族にとって欠くべからざる生活の糧であり、裏を返せば財産権の保障があるところ、そこに一定の思考や行為の自由が生じるのである。我が國に於いては、様々に時代は変遷しようとも、そこには常に財産権の保障が行われ、そこには上述の「自由」が生じてきたのである。


かくして、自由の発生と保障とは、実に、財産権の保障をその源泉の重要な一つとすると言っても過言ではない。


逆に、財産権の保障がなければ、自由の保障があるといっても、それは殆ど意味を為さないこととなろう。つまり、財産権という生存の保障がないところに、思考や行為の自由は殆ど形骸化するのである。生存の保障がなければ、死への恐怖から、人は自由には振舞えない。しかし、生存の保障さえあれば、そこに自由が生じるのだ。


実に、私有財産制こそは、自由の源泉である。自由市場経済の否定は、一切の自由の否定である。