第2章 偏見(経験)(8)「偏見」が自由を保障する

前述してきたように、憲法学上の「自由」とは、何らかの社会的制約を受けつつも、各人の有する思考や行動の許容範囲のことである。


そして、それをもう少し具体的にいうならば、世界的にみれば、「自由」には概ね三つの形態があり、それは ①ルソー・ジャコバン主義の自由 ②ジョン・ステュアート・ミルの自由 ③英米保守思想の自由 であり、これらの中で正しい自由とは③の英米保守思想の自由であり、我が國に於ける歴史的・伝統的な自由の概念も、③に属するものである、ということであった。


以上の詳細については、前回の『憲法学(保守思想)概説』の記事を参照されたい。


さて、もう少し端的にいうならば、そもそも、③でなければ、「自由」などと称していても、実際には自由は全く保障されなくなる、ということなのである。
①のルソーらの定義した自由は、それは全く口先だけの自由であって、実際には自由は全ての民から剥奪された。ルソー・ロベスピエール主義というカルト思想によって乗っ取られた革命フランスでは、ブルボン王家や貴族のみならず、フランス国民への大虐殺、法定手続なき処刑が日常茶飯事に行われたのである。


また、②は、一見は非常に自由の保障に資するように見えても、肝心の自由を保障している仕組み、システムそのものを破壊してしまうものであるゆえ、場合によっては①に劣らず危険な考え方であるともいえる。ミルは、「英国のマルクス」と呼ばれる人物である。


③は「父祖より相続した道徳や慣習、伝統など」という、自由の制限基準を示しており、また、それ自体が自由を保障する仕組み、システムをも守っているものでもある。これが、最も正しい「自由」である。


端的にいえば、保守思想に基づく憲法学の最大にして究極の目的こそは、自由の保障である。真正の自由の保障こそが、保守思想憲法学の存在意義である。
自由とは、父祖より相続した道徳や慣習、伝統などの範囲内に於いて許容され得る、各人の内心や行動の範囲のことである。すなわち、「法(Law)」の下の自由である。


以前の記事で、「偏見(経験)」の代表的なものを例示列挙した。これらは例示であるから、他にも重要な「偏見」があり得るであろう。そのことを前提に踏まえつつ、保守思想の三大要素である「國體(憲法・時効)・「偏見(経験)」・「相続(世襲)」の関係を、以下に図示しておく。これについては、随所でまた採り上げて論じていく。


【偏見(経験)】→→「偏見」の集合が「國體」→→【國體(憲法・時効)】
・皇室                         父祖 
・身分制度                        ↓
・國語                          ↓
・家族                          ↓    
・男女の別                        ↓ 
・自由市場経済         「國體」を子孫へと【相続(世襲)】させる
・国際関係(外交・國防)                 ↓ 
                             ↓ 
                             ↓ 
                             
                            子孫


そして、偏見(経験)とは、我々が父祖より相続してきた自由を保護し、守る機能を有している。偏見が破壊されることは、國體の破壊であり、それは自由の破壊である。

自由とは、何らかの社会的制約を受けつつも、各人の有する思考や行動の許容範囲のことである。そうであれば、自由が保障される為の最大の条件こそは、まず、政府が強大な力を持ち過ぎない、ということである。


更に、皇室や家族、自由市場経済などをはじめとする「偏見」が強固に存在していること。「偏見」は各人の理性に限界がある以上、これを守らねばならないものである。「偏見」を尊重するところに、他者への干渉は軽減される。

ここに、「父祖より相続した道徳や慣習、伝統など(法 Law)」の下の自由が生じるのである。故に、「偏見(経験)」とは「法」のことである、と言い換えても良いだろう。