第2章 偏見(経験)(9)男女の違い(男らしさ・女らしさ)

いつとは知れぬ久遠の過去、高天原の天つ神々は、伊奘諾神と伊奘冉神に「この漂える國を修理(つく)り固成(かためな)せ」と詔されて、天の沼矛を賜った。


伊奘諾神と伊奘冉神は天の浮橋にお立ちになり、天の沼矛を下ろしてコロコロとおかきまぜになると、その滴から淤能碁呂島ができた。


お二人の神々は淤能碁呂島にお降りになると、天の御柱をお立てになり、更に八尋殿をお建てになった。


お二人は天の御柱をお回りになり、深く、熱く愛し合い、夫婦となられ、大八洲と八百万の神々と、全てをお産みになった。


伊奘諾神と伊奘冉神は、ただ皇室のご先祖にあらせられるのみならず、この國土の父母であらせられ、八百万の神々の父母であらせられるのである。我々は、今も伊奘諾神と伊奘冉神の愛に育まれて、この世にある。


実に、我々の父祖の物語こそは、男女の愛の物語であり、それはただ過去の物語ではなく、今も続く久遠の愛の物語である。それは今のみならず、未来へと続く。過去とは今であり、それは未来でもある。


「豊葦原の千五百秋の瑞穂の國は、これ吾が子孫の君たるべき地なり。宜しく爾(いまし)皇孫、ゆきてしらせ。
さきくませ。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当に天壤(あめつち)とともに窮(きわま)り無かるべし。」


神々とその子孫である我々の間に於いて、凡そ男女の愛に勝るものはない。全ては伊奘諾神と伊奘冉神の愛から生まれ、そして今も、男女の愛は様々な事物を生み育む。そこには喜びも幸せもあれば、悲しみも不幸もある。それら全て含めて、神々の生みたもうたこの世である。


さて、男女が愛し合い、男は女を守り、女は男を助ける。これは伊奘諾神と伊奘冉神の姿そのものであり、ゆえに男女の愛し合う様はそのまま神々の業である。
男女はそれぞれ、その外見のみならず、その脳の構造さえも異なる。よって、その働き、能力もまた自ずと異なる。


そして、男女はその異なりの故にこそ、忌み嫌い合うのではなく、相惹かれ愛し合う。凡そ、人は異なるものに対し、嫌悪を持つのが自然であるが、男女についてはこれは、全く当てはまらない。男女の違いこそは、お互いにお互いを神秘的で尊敬すべきものと思わせる。


このような男女の外見上や脳の構造の違いは、男女によって形成されてきた社会(中間組織。追い追い後述する)や國の成り立ちに直接の影響を及ぼす。また、歴史的・伝統的に形成されてきた社会や國はまた、男女の違いに影響を及ぼす。かくして、國や社会のあり方と、男女の違いは互いに影響を与えつつ形成されていくのである。


かかる男女の違い(男らしさ・女らしさ)とは、誰か特定の者や集団が、その理性で決定したものではない。男女の先天的な違いを前提に、歴史的・伝統的に自生的に形成されてきたものである。これこそまさに、フリードリヒ・フォン・ハイエクのいう自生的秩序(Spontaneous Order)であって、エドマンド・バークのいう偏見(経験)(Prejudice)そのものである。


すなわち、男女の違い(男らしさ・女らしさ)こそは、我々の父祖から相続してきた道徳や慣習などそのものであって、不文の憲法(國體)の重要な要素を構成するものである。


男女の愛は、如何に多くの崇高なものを育むだろうか。


男女の愛は、相手を大切にし、尽くすことによって生じる智慧と、己を省みる心、そして己を相手の為に犠牲にし、相手を守る為ならば死をも厭わない勇気を育んでくれる。愛こそは、道徳の源泉であり、我々の命の源泉であり、我々が神々から相続したこの世の中で、最も崇高な様々なものの源泉である。


夏、それは恋の季節だ。過去は今であり、今は未来である。


「豊葦原の千五百秋の瑞穂の國は、これ吾が子孫の君たるべき地なり。宜しく爾(いまし)皇孫、ゆきてしらせ。
さきくませ。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当に天壤(あめつち)とともに窮(きわま)り無かるべし。」