第2章 偏見(経験)(10)「平等」は「自由」を破壊する

さて、本日は「平等」についてお話ししたい。


いわゆる通常にいわれるところの“憲法学”に於いては「平等」とは「基本的人権」の一つとして必ず守るべきものとして取り扱われている。


しかし、保守思想に立脚する正統の憲法学に於いては、「平等」は絶対に憲法原理として認めてはならないものであり、憲法学から追放すべき悪の概念である。何故かといえば、端的にいえば、「自由」を破壊するのが「平等」だからである。


これについては、非常に驚かれる方も多いだろう。本日は、なぜ「平等」が「自由」を破壊するものであるのか、をお話しする。


本来、この章では、「偏見(経験)」と呼ばれる、「個人や集団の理性によるものではない、自生的に発生してきたところの、父祖から相続した道徳や慣習や伝統など」を採り上げている。この「偏見」の総体が「憲法」である。


従って、「憲法」ではない、それを否定し破壊する「平等」についてはここで採り上げるべきではないのだが、前回以前に「自由」について採り上げた関係上、注意を喚起する意図であえてここで採り上げておく。


なお、「平等」はこれから述べるように、保守思想に属するものではなく、いわゆる左翼思想に属するものである。よって、『憲法学概説』第四章 左翼思想とは何か でも採り上げる予定である。


さて、「自由」とは何をやっても構わない、好き勝手にする、という放縦のことではない。「自由」とは、何らかの社会的制約を受けつつも、各人の有する思考や行動の許容範囲のことであるが、更に具体的にいえば、「自由」とは、「法(Law)」の下に於ける自由、すなわち、「我々の父祖から相続してきた道徳や慣習、伝統など」の下に於ける自由のことである。これが正統の自由である。
これこそは、エドワード・コークやエドマンド・バークらが承継してきた英米保守思想に於ける自由であり、また、我々日本人にとっての伝統的な「自由」の概念もまた同じである。


なお、「自由」についての詳細は、 第1章 偏見(経験)(6)「法(Law)」の下の自由 以下の記事を参照されたい。


このような制約を前提とした上で、人は己の能力や才能をそれぞれに生かし、働くことで國は発展する。各自が勤勉に働くことで、己が富むのはもちろん、國も富むのである。自由とは、勤勉や節制などの道徳をも育む、道徳の源泉であり、自由な社会は気品ある道徳が醸成される社会である。


さて、人がこのように活躍する前提となる才能や能力、性格や気質、父祖から受け継いだ財産などというものは、生まれつきバラバラである。家柄や血統などというものも影響するであろう。これらのものは、各自が生れながらにして父祖から相続したものである。


こうしてみると、各自が活躍する上での前提となる才能や性格、財産などの諸々は、皆それぞれバラバラであって、不平等である。人は生れながらにして平等である、というのは真っ赤な嘘である。人は生れながらにして不平等である、が事実である。そして、そのようにして國が成り立ってきたものであるにもかかわらず、我々の勝手でどうしてそれを、破壊して良いものであろうか。不平等を「是正」して「平等」にしようとすることは、取りも直さず國を破壊することになる。


そもそも、不平等を無理やりに「平等」にしようとするということは、各自の勤勉や節制などの結果として生じた「格差」を否定することである。従って、勤勉や節制などの道徳は育まれることがなくなる。社会には倦怠と惰弱が蔓延し、國は衰退する。「格差是正」とは、國を破壊する悪のスローガンでしかない。


自由は必然的に、社会に於ける自由競争を前提とする。自由な競争は、各自の能力や人格を練磨し、その國民を全体として向上させる。


また、身分制度は「自由」を保障し、それを守る機能を有している。身分制度は上位の身分に属する者(貴族など)により大きな自由を、下位の身分に属する者(平民など)により少ない自由を保障するものである。


つまり、身分によって保障される自由の「量」的差異は生じるものの、身分制度は確実にそこに、身分それぞれに応じた「自由」を保障するものであって、それを完全に剥奪することはない。何故ならば、それを否定して自由を剥奪することは、身分制度そのものの否定、破壊となってしまうからである。


従って、身分制度を否定する「平等」を推し進めることは、「自由」を破壊することになる。


この点については、この章の「身分制度」でも述べる予定である。


ただし、ここで一つだけ、付言しておきたい。「法律の下の平等」という言葉がある。これは、全ての人間が法律上は公平に取り扱われる、という意味である。
実は、この「法律の下の平等」という概念は正しいものであり、「自由」の概念とは矛盾せず両立する。


というのは、「平等」とは、それぞれ各自異なっているものを、無理やりに、強制的に同じにしてしまう、同じに取り扱う、ということである。これは、上に述べてきたように「自由」と矛盾する。


しかし、全ての人間を法律上は公平に取り扱う(法律の下の平等)、というのは、その法律の内容が父祖から相続した道徳や慣習などに反しないもの、つまり、正しいものであれば、その法律を対象となる人々に対して公平に適用する、ということなのだから、まさに法律の機能そのものであるし、そうでなければならない。


従って、「法律の下の平等」は、「自由」とは矛盾しない。そもそも、これは「違うものを無理やり同じにする」という「平等」とは違うものなのだから、「平等」という言葉を使うのは不適切であり、「法律の公平性」などと表現するべきであろう。


以上に述べてきた、「自由」と「平等」の関係を端的に述べてみよう。


自由とは何か。自由とは、不平等のことである。