第2章 偏見(経験)(4)自由市場経済は憲法(國體)である
ある社会的慣行や制度が、「偏見(経験)」であると認められること、つまり、憲法(國體)の一部を構成する重要な要素であると認められるには、いかなる条件が必要なのだろうか。
偏見(経験)の集合が憲法(國體)なのであるが、偏見(経験)であると認められるには、どのような条件が必要なのか、ということである。これは、自由市場経済(私有財産制)のみならず、他の「偏見(経験)」、つまり、男女の別、家族、外交(国際関係)、國語、そして身分制度などに於いてもいえることである。
まず、経験的に得られる事柄として、我々の理性は脆弱であり、我々は必ず間違いを犯すものである、ということがある。
従って、我々は、國の行く末やあり方を左右するような重大な政治的決定については、己の脆弱な理性を信頼してはならない。これは、個人であれ、多数決(民主主義)であれ、何の変わることもなく同じである。
そこで、我々は、自分たちの理性に代わるものとして、数千年、数百年にわたって経験されてきた民族の「偏見(prejudice)」に頼るのである。このような経験たる偏見は、長い年月にわたって経験されてきたが故に、その正しさを証明されているのだ。
つまり、我々は、この偏見(経験)を最高の規範として、國を運営していかねばならず、この偏見(経験)に反する如何なる法令や判例、条例なども全て、無効である、ということになる。これらの偏見(経験)の集合、集積の総体を、憲法(國體)と呼ぶのである。
以上の事柄から考えれば、ある社会的慣行や制度が偏見(経験)である、つまり憲法規範であると認められるには、以下の条件を満たさねばならないといえる。
<偏見(経験)であることの三原則>
1、その社会的慣行や制度が、数百年以上にわたって形成され、遵守されてきたものであること。
2、その社会的慣行や制度が、それ以前から存在している偏見(経験)に矛盾しないものであること。
3、その社会的慣行や制度が、それが始まった当初に於いては、個人や集団の「理性」から発案されたものであることは、それ自体は問題ではない。それが何百年、何千年もの間にわたって、道徳や慣習などの規範として相続されていくか、が問題なのである。
3、については、その偏見(経験)が、その始まりに於いては、誰かの理性の産物であったことは問題ない、ということである。如何なる慣行や制度も、初めは発案者のような者がいるのが通常であろうから、それは問題ではない。それが何百年以上にもわたって経験され、社会的慣行や制度として定着していくかどうか、が問題なのである。
従って、自由市場経済(私有財産制)は憲法(國體)の一部であり、敬意を払って、絶対にこれを改変してはならない。何らの微調整をも許さないということでもないが、やはり、数千年の歴史を有している自由市場経済に対して、我々が理性で改変や全否定を行うのは國體破壊となるのだ。
まさに、我々は、これをソ連ロシアや支那中共、北朝鮮やカンボジアのポル・ポトなどで「経験」したのである。
経済的自由のないところに、精神的自由(表現[言論]の自由や人身の自由など)はあり得ない。
自由市場経済とは、すなわち我々の享受している自由そのものに他ならない。自由市場経済の否定や破壊は、國の破壊であり、文明の破壊である。
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