第2章 偏見(経験)(6)「法(Law)」の下の自由

さて、ここで我々は、三つの相反し排斥し合う憲法学上の「自由」について知る必要がある。


その前に、我が國に於いて、歴史的・伝統的な憲法学上の「自由」とは如何なる概念であったのか、を押さえておきたい。つまり、一般的な憲法学上の「自由」とは、何らかの社会的制約を受けつつも、各人の有する思考や行動の許容範囲のことであるが、これには従来、三つの相反する形態があり、我が國に於ける「自由」とはそのうちの何れに属するのか、という問題である。

但し、ここで留意すべきことがある。我が國には、古来より「自由」という言葉は存在したが、それは、概ね「ほしいまま」「勝手気まま」という意味合いで用いられていた、ということである。
しかし、この記事で扱うのは、このような我が國に於ける「自由」という言葉の歴史的な意味合いのことではない。これは、何らかの社会的制約を受けつつも、各人の有する思考や行動の許容範囲のことについての話ではないのであるから、憲法学上の「自由」についての話ではないのである。
あくまでも、この記事で扱うのは、憲法学上の「自由」の概念が、我が國に於いては歴史的・伝統的に如何なる意味合いを持っていたのか、である。「自由」という言葉の用い方の歴史的な用法を論じるのではないので、この点を混同しないようにして頂きたいのである。この点を混同すると、何を論じているのか良く分からなくなってしまうので、注意されたい。


さて、我が國に於いては、皇位継承に関わる不文の法が元明天皇の即位の宣明に「不改常典(かはるまじきつねののり)」として表現されているのをはじめ、國政は父祖より相続した不文の法を最上の規範として行われるのを常としてきた。
一時は、表面的には律令制などの大陸的成文法主義に走るにみえるも、我が國の歴史的・伝統的な慣習に合致しない律令は死文化していった。かくして、我が國に於いては、幕府制による時代に於いても慣習法を最も重んじる政治が行われ、御成敗式目その他の成文法も、父祖から相続してきた不文の慣習法を成文化したものとして起草されたのである。


かくして、我が國は、父祖より相続してきた道徳や慣習、伝統などの規範に則り、その政治は行われてきたのである。すなわち、我が國に於ける歴史的・伝統的な憲法学上の「自由」とは、父祖より相続した道徳や慣習、伝統などの不文の法の下に於ける自由である。
この傾向は、明治維新に於いて、専らドイツ大陸法系の成文法思想の流入によって弱まるが、しかし大日本帝國憲法と皇室典範については、事情は異なっていた。


大日本帝國憲法と皇室典範を起草すべく英才らの中、伊藤博文は欧州留学中にプロイセン王国憲法を学び、底流する英米法思想をも学んで帰朝した。なお、プロイセン王国憲法は、後に成立するドイツ帝国憲法とは全く法思想を異にするものである。ドイツ帝国憲法は、フランスなどと同様の大陸法系成文法主義に立脚するものであるが、プロイセン王国憲法は、英米法系不文法(コモン・ロー Common Law)主義に立脚するものであったことを銘記しておくべきである。


また、金子堅太郎は早くよりアメリカに留学しており、ハーヴァード・ロー・スクールにて英米法思想を学んだ俊才であった。金子堅太郎は、アメリカ合衆国憲法を起草したアレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton)らの著書『フェデラリスト』などを研究し、帰朝後は英米保守思想のバイブルといわれる英国のエドマンド・バーク(Edmund Burke)の『フランス革命の省察』などの抄訳を刊行するなど、英米保守思想憲法学の第一人者であった。
エドマンド・バークやエドワード・コーク(Sir Edward Coke)などに通底する英米保守思想とは、父祖から相続した道徳や慣習、伝統などの「法(Law)」に、国王の命令や国会の制定法などの成文法は従わねばならない、と考える。これが、「法の支配(Rule of Law)」である。
そして、このような思想は、前述してきたように、我が國に於ける古来からの國政のあり方と、奇妙に偶然に一致するのであった。


皇室典範と大日本帝國憲法双方の起草の中心人物であった井上毅は、この一致を知悉していた。そして、英米法にいう「法(Law)」を、「皇祖皇宗の遺訓」と捉え、皇室典範も大日本帝國憲法も、この不文の「皇祖皇宗の遺訓」に従わねばならず、これを成文化したものでなければならない、と考えたのである。
かくして、伊東巳代治を加えたこの四名は、以上のごとき考えの下、大日本帝國憲法と皇室典範を起草したのである。


大日本帝國憲法と皇室典範は、法体系に於いては、慣習法を成文化した英米法系の法典なのである。